お知らせ・トピックス

残暑お見舞い申し上げます。

宇都宮セントラルクリニック 放射線専門医 佐藤俊彦
 
梅雨前線の停滞する夏で、広島はじめ各地で水の災害が相次いだ夏でしたが、もう秋風ですね。いま、日本は3.11から続く、水難の相にあるという話で、まだまだ水による災害は続くと見たほうがいいようです。
かくいう私も、昨年は愛車が水没するというアクシデントに見舞われ、なるべく雨の日あるいは雲行きが怪しい日には、じっとしていようと思っております。
8月は、色々なセミナーなどで各地に行く機会がありました。
8月2日は、鹿児島で“低分子フコイダン”の研究会があり、がんの患者さん向けのサプリメントとしての効果について色々な先生から講義を聞いてまいりました。
一番の効果は、がん細胞に対して、直接アポトーシス(細胞死)を誘導するという話です。副作用もないため、がん患者さんに勧めてもよいと考えています。
https://www.daiichi-sangyo.com/products/fucoidan_feature.html
九州大学の白畑先生のグループが色々な論文を書いています。
https://www.daiichi-sangyo.com/research/index.html
 
次の日には、日本医大で研修医をしていたときにお世話になりました、内視鏡科の花牟礼先生が串木野で開業されており、そこにハイパーサーミア(温熱療法)の装置が導入されたということで、講演会を聞いてきました。
100年続く病院の院長先生で、ご自身のお父様を胃がんでなくされており、自分は消化器内視鏡の専門医であったにもかかわらず悔しかった、といって、標準治療に限らず、患者さんに良いことはどんどんやろうということで、今回ハイパーサーミアと低分子フコイダンなどの併用療法を開始したそうです。
http://goo.gl/IeMBMS
『癌治療の新しい常識』という著書には、色々な余命宣告を受けた患者さんの実話が掲載されています。あきらめてはいけないことが、共感を誘っていました。
また、一緒に講演された近藤元治先生は、京都府立医大の元教授で、日本のハイパーサーミアを作り上げた先生です。がんへの血液の供給を遮断して、ラジオ波を加えると、腫瘍のところにだけ極端に温度上昇をきたします。それによって起こる腫瘍アポトーシスや、ヒートショックプロテイン(免役活性を高める物質の増加)を利用して腫瘍をたたく方法を採用しています。
ヒートショックプロテインは、がんを加熱すると現れ、癌抗原と結合し、膜表面にがん特有のマーカーを形成して、免疫細胞から認識しやすいように作用することがわかっています。
『がんになってもあきらめないで』を一度、ご一読ください。
http://goo.gl/uRGmc2
そんなわけで、ステージIII・IVの患者さんに対して治療を実践している、新札幌恵愛会病院の八十島院長に色々と現地を見せていただき、治療成績や経済合理性などを質問してきました。
先生によると、非常に良い方法で、治療効果も確認されているが、保険点数が低すぎるために医療経済的には導入に値しないというお話でした。
日本では、唯一、山本ビニター社が治療機器を供給しているのですが、世界はどうなっているのか?調べているうちに、オンコサーミア社というメーカーがあることがわかり、そこにコンタクトを開始しました。
http://www.vinita.co.jp/medical/medical01.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Oncothermia
この機械を見学に、タイのバンコクがんセンター病院へ行ってきました。
http://omicsonline.org/open-access/oncothermia-nanoheating-paradigm-1948-5956.1000259.php?aid=24822
この機械の特徴は、これまでのハイパーサーミアがマクロ加温(42-43℃までラジオ波でやけどするくらいに加熱する)であるのに対して、ナノ加温のセオリーを採用しており、がん細胞を選択的に加温することができるという点です。しかも、加温といっても、実際には1-2℃がん細胞の内外で温度差をつければいいだけなので、大きなラジオ波の出力がいらないばかりか、がん細胞に特有のワールブルグ効果をブロックして、好気性代謝を引き起こし、アポトーシスを誘導するとされています。
https://db.oncotherm.org/devicedb/web/phy/Oncothermia%20Therapy.pdf
この機械は、ハンガリーで開発され、現在は、ドイツやオーストラリアの統合医療のクリニックやタイのがんセンター、韓国の大学病院で多数普及しています。バンコクのがんセンターでは、HIFUという中国製のハイパーサーミアの装置も導入されていたのですが、麻酔が必要なので、いまは使わず、すべてオンコサーミアで治療しているそうです。
治療成績に関しては、9月5日に福井でハイパーサーミアの学会が有り、そのときにタイと韓国の先生が来日して発表するそうです。
なによりも、開発者のDr.Andras Szaszが来日して、おめにかかれるのを心待ちにしています。日本では、薬事未承認の製品ですが、有効性カが確認されるのであれば、すぐに導入したいと考えており、弊社AIIM-JAPANで、導入に向けて準備を進めています。
http://www.aiim.co.jp/
これまでの私のがんに対する対応は、一貫して、“ステージI・IIでみつけて治るうちにたたいてしまう”“テロメスキャンを用いて、ステージ0の疾患を見つければ治療も可能である”という、診断学をベースにした考え方でした。しかし、毎日の臨床のほとんどは、ステージIII・IVの患者さんで、この患者さんのためにお役に立てることはないか?そんな思いで、職員とも勉強を続けております。
今週のハイパーサーミア学会のレポートは、次の月にまとめたいと思います。
http://www.jsho.jp/
 
せっかく串木野に行きましたので、今年の7月にOPENしたての“薩摩藩英国留学生記念館”を訪問してきました。
薩英戦争で、英国の技術を思い知らされた薩摩藩は、鎖国時代にもかかわらず、19人の若い藩士を英国留学で密航させました。トーマス・グラバーが手配したオースタライエン号に乗り込むために、串木野の鳥羽に約2ヶ月間滞在して出向。英国や米国に渡り、勉強し、帰国後に政府の要人として活躍することになるわけです。
五大友厚は、紡績機や武器を大量に購入して、後に大阪造幣局を誘致し、初代の大阪商工会議所会頭になります。
村橋久成は、留学中にみた近代農業を手付かずの大地で実験したいと思い、函館や札幌に屯田兵村を作り、北海道での近代農業へと取り組みます。ドイツで醸造学を勉強してきた中川清兵衛を雇用して、いまのサッポロビールの前身を造ります。葡萄醸造所、製糸所、種畜牧場、鮭ふ化場、鶏卵ふ化場、製物試験所の創設にも敏腕を振いました。
サッポロビールは、第一次世界大戦で、チンタオビールを接収して、ドイツのビール製法に磨きをかけます。そして、第二次世界大戦後、チンタオビールは、中国政府のものとなりますが、チンタオのビール博物館に行きますと、当時使っていた木製のたるにはサッポロビールのマークが入っていました。そして、いまはアサヒビールが大株主となり、チンタオビールを買収しています。
森有礼(もりあつのり)は、初代文部大臣を務めたのですが、廃刀論や契約結婚・英語教育論などにも現れる革新的な森の考えは、当時の日本では反発を生み、明治22年(1889)2月11日「大日本国憲法」発布の日、国粋主義者によって暗殺されました。享年41歳。
和魂洋才が重要で、外国のものをそのまま持ち込むのは、抵抗勢力を刺激するだけだと感じます。
私がもっとも感銘を受けたのは、長沢鼎(ながさわかなえ)です。
留学当時、薩摩藩開成所第三等諸生。英学専修。13歳。
薩摩藩の暦学者の家系である磯長家の4男。留学生の中では最年少でした。留学後は「長沢鼎」の名を生涯名乗り続けました。
イギリスでは、ロンドン大学には入学せず、スコットランドのアバディーンにあるトーマス・グラバーの実家に寄宿しながら、地元の中学に通いました。地元の新聞に名前が載せられるほど、優秀な成績を修めたようです。イギリス留学が金銭的に行き詰ってきた1867年夏、留学を続けるため、森有礼、鮫島尚信、畠山義成、吉田清成、松村淳蔵とともに、アメリカの宗教家ハリスのもとへ向かいます。他の留学生たちがハリスのもとを離れる中、長沢だけは残り、ハリスの後継者のひとりとなりました。彼は単にハリスの事業を引き継いだだけでなく、カリフォルニアでのワイン醸造を成功させ、人々に「ブドウ王」と称されました。アメリカに永住し、その地で82歳の生涯を閉じました。昭和9年(1934)3月1日死去。
1983年にレーガン大統領が来日した際、国会で「侍から実業家になった長沢鼎は私たちの生活を豊かにし、日米友好の歴史の中で特筆すべき」と国会の演説で敬意を表したことから広く世に知られるようになりました。
 
彼は苦労して1900年にワイナリーをハリスの教団から買い取り、ファウンテングローブ ワイナリーをカリフォルニアの10大ワイナリーのひとつにまでし、米国内のワインコンクールを席巻します。イギリスに初めて輸出されたのがナガサワ ワインでした。
しかし、1920年から1933年まで続く、禁酒法が彼の人生をいっぺんさせます。
そして1933年3月23日にルーズベルトが禁酒法を解くのですが、その翌年に亡くなっています。人種差別もあったと思いますが、悔しかったでしょうね。
実は、私たちの医療業界も、同じことが言えます。ある日突然、社会保障、年金制度や医療保険制度の破綻を政治家などに仕掛けられたら、同じ目にあうんでしょうね。そんな思いがこみ上げてきました。
島津久光公と薩摩隼人の厚い人生を感じることができる博物館だと思います。
鹿児島から、約1時間です。知覧観光とあわせて行かれることをお勧めします。
 
イギリス留学で、日本を変えた人に、“竹鶴政孝”がいます。
PETサマーセミナーが小樽で開催されましたので、ニッカウィスキーの余市工場に行ってきました。ニッカの余市工場は、いまも1940年に操業して以来の製造方法でウィスキーを造っており、彼がイギリスから買い付けてきた蒸留器などもいまだに現役で使われています。
彼は、広島の造り酒屋の3男として生まれ、サントリーがエチルアルコールにカラメルをいれて、イミテーションのウィスキーを造っていることに疑問を持ち、スコットランドに留学して、ウィスキーの造り方を盗んできます。竹鶴ノートというものに、その製法が細かくメモされており、産業スパイともいえますね。
そして一緒につれて帰ってきたのが、リタ夫人であったわけです。
最初、サントリーに入社して、山崎に蒸留所を作ります。しかし、出来上がったウィスキーが日本人の口に合わない、出荷までに時間がかかるということで、経営方針に亀裂が生じます。そして彼は、余市で独立するわけですが、5年以上樽で寝かせるウィスキーは、5年間収入がありません。したがって、その間を余市のりんご果汁を絞って販売してしのいだそうです。アップルワインやシードルが今もあるのはその名残です。
また大日本果汁株式会社が、ようやくウィスキーを出荷できる時期になり、社名をニッカに変更しています。
つまり、スコットランドの製法にこだわりすぎたために、日本人の口に合わなかった。そこで彼は、宮城教で作ったグレーンウィスキーと余市のモルトウィスキーをブレンドします。それが、リタ婦人が亡くなった次の年に出した“スーパーニッカ”なんです。これが大ヒットして、次の“ブラックニッカ“につながります。
そして、会社は成長していくのですが、サントリーと大きく違うのは、サントリーは日本人の口に合うウィスキーを模索した。竹鶴さんは、リタさんの影響もあって、英国式にこだわった?
非常に正反対で、面白いです。
サントリーの山崎工場は予約が必要で、有料見学ですが、ニッカ余市工場は無料で、予約は要りません。社風がまったく違いますが、成功しているのはサントリーでしょうね。ここにも和魂洋才が生きているように思います。
ちなみに、竹鶴25年は、ブレンドウィスキーなので、サントリー響21年か30年と同等と思いますが、金額は、サントリーが2倍します。
嗜好品なので、好き嫌いがありますが、圧倒的に日本人の好みを追求したブレンド力がサントリーの強みといっておりました。
良いものと良いものを融合して、さらに良いものを作るのが、ブレンダーだそうです。
http://www.nikka.com/products/blended/blackclear/kob.html
私もブラックニッカのひげのおじさんのように、良いものを融合して、さらに良い医療を提供できればと考えております。
 
なお、NHK朝ドラで、9月29日より、来年3月28日まで、竹鶴政孝とリタ婦人の物語が始まります。皆さんも、一度、余市にお出かけください。
http://www.nhk.or.jp/massan/
 
遺伝子治療特区の件もあり、まだまだ引退できそうにありません。
今後とも、よろしくお願いします。




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