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「震災から10年、栃木に来て10年」

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皆さま、こんにちは。宇都宮セントラルクリニック Female Wingセンター長の伊藤 淳(じゅん)です。

 このところだいぶ暖かくなって春めいてきましたね。ぽかぽかの日差しのもとでボンヤリしているだけでも幸せを感じられる、春はとても好きな季節です。

 この文章を書いている今日は、311日。今日でもう10年も経つんですね。あっという間だった気もするし、とても長かった気もするし。

改めて被害に遭われた皆様、ご家族や知人を亡くされた皆様にお見舞いを申し上げせていただきます。

 実は私が宇都宮の地に関わりを持つようになったのも、ちょうど10年前、震災のあとからでした。ふと、その頃のことをいろいろ思い出しましたので、今日はそれを書き留めておこうと思います。

写真:福島県立医科大学附属病院HPより

3.11 福島県立医大病院にて

ちょうど10年前のあの日、私は福島県立医大病院2階の外科外来診察室にいました。乳がんの手術を終え退院された患者さんの診察中でした。

信じられないほど長く続く激しい揺れ。このままずっと続いたら地球が粉々に砕けてしまうのではないかと思ってしまうほどでした。

ようやく揺れがおさまって周りを確認すると、大勢の職員が病院の建物の外に避難をしていました。私のいた2階であの揺れだったのですから、病院の上のほうの階はさぞ大変なことだったでしょう。診察していた患者さんを無事見送りようやく医局に戻ると、テレビでは信じられない光景が。津波でした。とても現実とは思えない、まるで映画でも見ているような。医局員みな、言葉も発せず、呆然としてテレビを見つめていたのを覚えています。

 そしてその後の福島第一原発の事故。福島医大は原発災害対策への最重要拠点となりました。放医研、自衛隊、DMATなど、大勢の方々が大学に出入りしていました。グラウンドから発着する自衛隊のヘリ。相双地区の病院から移動する大勢の患者さんを乗せた、たくさんの大型バス。食べ物や水、ガソリンの不足。原発の状況はどうなってしまうのか。自分たちに被曝はどの程度起こってしまうのか。家族を、子供を守るためにはどうすればいいのか。

この先どうなってしまうのか分からない不安のなか、めまぐるしく駆け抜けた日々でした。

 311日は金曜日でしたよね。実は、僕はその週の月曜日37日、福島第一原発から目と鼻の先、福島県双葉郡大熊町の福島県立大野病院を訪れていました。本当はその4月から、県立大野病院の外科に赴任することになっていたのです。以前、医師6年目のときに1年間、大野病院に勤務していたこともありまして、久しぶりに訪れた懐かしい土地。その日は事務や医局の先生方にご挨拶をし、自分が数週間後には単身赴任で引っ越す予定だったアパートを見学して帰りましたが・・・まさかその数日後にあんなことになろうとは。もしも地震が発生するのがあと数週間遅かったら、僕は原発の間近の病院でそれを経験することになったでしょう。

 実はこの話には、もう少し前置きがあります。事の発端は2010年の秋頃。私たち福島医大器官制御外科の乳腺外科グループに、当時の教授からひとつの命令が下りました。「栃木県の獨協医科大学に、乳腺専門医を出してほしい」とのこと。どうも、<獨協医科大学には、第一外科と第二外科それぞれに乳腺専門医の先生がいたのだが、最近どちらの先生も大学を辞めてしまい、乳腺を専門とする医師がいなくなってしまった。その代わりとして、それにこれから大学で乳腺センターを新設するのでその長として、福島から専門医をひとり出してほしい>ということらしく。

 まさか、自分のところまでこの話が降りてくるとは思ってもいませんでした。だって、その頃福島の乳腺外科グループには、OBの先生も含めて何人もの専門医の先生がいらっしゃるし、自分は20101月に乳腺専門医を取得したばかり、まだ医師10年目の若輩者でしたので。それに、これまでも医局人事で福島県内、近隣の病院はいくつも勤めてきましたが、私立の大学への赴任というのはちょっと勝手が違うだろうという不安も大きく。

 しかし、先輩方がことごとくお断りされたらしく・・・最終的には自分に話が降りてきました。「淳、行ってくれ」と、当時のグループ長の先生から言われました。このとき、もしも自分もお断りしていたら・・・たぶん自分の人生は、今とは全く違う方向に進んでいただろうと思います。ただちょうどその頃の自分は、念願の乳腺専門医も取得し、何か新しいことにチャレンジしたい!と燃えていた時期でしたので、話を頂いたときにはさすがに驚きましたが、わりとすんなりと了承したのを覚えています。

 とういうわけで、本当は2011年の4月から獨協医大に赴任するはずだったのですが、様々な理由でそれが急きょいったん保留となりました。ただ、その頃僕はもう福島医大を退職する手続きが済んでしまっていたので、じゃあ、獨協に行くまでのあいだ、いったん県立大野病院に行ってくれるか? となったという訳でした。

 そのような状況のなか、震災が発生しました。その春の医局人事は全て凍結され、私もそのまま福島医大で勤めていましたが、ようやく震災後の状況も落ち着いてきて、20119月に獨協医大に赴任した、というのが大まかないきさつです。

震災から10年。栃木の地に来て10

獨協医大では、本当に貴重な経験をたくさんさせて頂きました。赴任した当初は、福島時代に自分が学んできたものを そのまま踏襲することで精いっぱいでしたが、徐々に「私なりの乳腺診療」というものが掴めてきたように思います。たくさんの大切な患者さんたちと出会いました。その大切な患者さんたちから、大切なことをたくさん学ばせていただきました。

 そのようななかで、宇都宮セントラルクリニックで乳腺センターを設立する運びとなり、私は非常勤として関わらせていただきはじめ、その後様々な事情が重なり大学を離れることとなり、今こうしてクリニックのFemale Wingセンター長として勤務させていただいています。本当に、人生っていろいろなことが起こるものですね。

でも考えてみますと、私は乳腺専門医となってからの医師人生の大部分はこの栃木の地で過ごしていますので、栃木、宇都宮は、本当に私の乳腺外科医としての第二の故郷のように感じています。

たくさんの人と出会い、支えていただきながら、今こうして自分の乳腺専門医としての人生の目標を、少しずつカタチにしていけることに、本当に心から感謝しています。

震災から10年。栃木の地に来て10年。

これからも、さらに新しいステージとして残りの医師人生を全うしていけますよう、この地でがんばっていきたいと思っています。

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